北海道西部、後志山地中部に位置し、後志支庁虻田(あぶた)郡倶知安(くつちやん)町・京極(きようごく)町・喜茂別(きもべつ)町・真狩(まつかり)村・ニセコ町にまたがる山。近世よりシリベシ、後方羊蹄(しりべし)山とも記され、またその秀麗な富士山型から蝦夷富士ともよぶ。標高一八九三メートル。北西のニセコアンヌプリ(一三〇八・五メートル)、南東の尻別(しりべつ)岳(一一〇七・四メートル)、南西の昆布(こんぶ)岳(一〇四五・一メートル)などの羊蹄火山群の主峰で、渡島半島を含む道南西部の最高峰。基底の直径約一二キロのコニーデ型独立成層火山で、約二万五〇〇〇年前に噴火を開始、大きく三期の安山岩質溶岩噴出期があり、二期目で本体の大部分が形成され、約一万三〇〇〇年前の三期目で頂上に直径約七〇〇メートル・周囲約三キロ・深さ約二〇〇メートルの大釜とよぶ爆裂火口から溶岩を流し、本体が完成。この火口の外輪山北側に母釜・子釜とよぶ小さな火口をもつ北山、西麓の一合目に半月(はんげつ)湖とよぶ小爆裂口、北麓の二合目に富士見山とよぶ火山砕屑丘、南西麓の三合目に南コブとよぶ溶岩噴出丘など六個の寄生火山がある。日本火山予知連絡会が平成一五年(二〇〇三)一月、活火山定義の過去活動範囲を一万年前(更新世と完新世の境界)に延長、当山は区分上は活火山。
近世より「夷地第一の高山也」といわれ(東海参譚)、「尻別嶽」(「和漢三才図会」所載蝦夷之図、「駅路抵記」)、「シリヘツ山」(谷「蝦夷紀行」)、「シリベツノボリ」(風俗人情之沙汰)、「後方羊蹄山(しりべしやま)」(「蝦夷日誌」二編)、「後方羊蹄岳」(観国録)、「後方羊諦岳」(春日紀行)などとみえる。一七三六年(元文元年)「尻別御山」の杣入などを出願、八月に許されて杣取材木目当高は一ヵ年一万四千―一万五千石、運上金一ヵ年一千二〇〇両と定められた(「飛騨屋蝦夷山請関係文書」新北海道史)。三九年頃の松前藩ではこのシリベツ山材木運上の古金一千二〇〇両ほどが鯡運上・商船運上・蝦夷地秋運上などとともに主要な歳入となっていた(北海随筆)。「蝦夷迺天布利」に「シリベツの嶽」「しりべつのたけごんげん」とあり、「もゝへの山をへだてながら、あまつみそらとひとしう、不尽を三河、遠つ淡海の高山よりうち見たらんにことならず。これを後方羊蹄山ともいへり」という。また「此山をシヤモはもはらシリベツの岳といへれど、その山のあるコタンほとりに栖むアヰノらは、此山をマカルベツノノボリといひ、シリベツは其近となりに在る名なり」と説明している。「丁巳日誌」(報志利辺津日誌)でもアイヌはマッカリヌプリ(後方に対をなす一方の山)、また南東の尻別岳を男山(ヒンネシリ)に対して当山を女山(マチネシリ)ともよんだという。谷「蝦夷紀行」に「衆山の上より秀づ、火山也、夷人云ふ、山上に沼あり」と記される(寛政一一年八月六日条)。「蝦夷日誌」(一編)に「此処より臼が嶽真向ニ見え、羊蹄山は其嶽の上にまた突出し」とある。「行程記」に「四時ともに白雪をいたゞきて大空に突出す、実に北海第一の奇観なり」という。明治三年(一八七〇)の「北行日記」にシリヘシ山とあり、「富士ノ如キ山遥ニ見ユ」と記される(同年七月三〇日条)。山名の由来は「日本書紀」斉明天皇五年(六五九)三月条にみえる「後方羊蹄」(将軍阿倍比羅夫が蝦夷の助言で郡役所を置いたという地。場所は不詳)であるが、羊蹄は古語でタデ科のギシギシという雑草、また文字どおりには羊のヒヅメを意味する。明治期以降、読みやすさからか、しばしば「後方」が略された漢字二字の表現が新聞や書物類にみられ、とくに第二次世界大戦後、その音読みが定着した。明治三〇年旧陸軍陸地測量部が頂上に三角点を設置、このときの山名は真狩岳であった。東麓・北麓・西麓の三方を尻別川が迂回して西へ流れ、裾野は広く低平地になるが、近世末まで和人にはほとんど未踏の地。本格的な開拓は明治二七年の殖民区画設定以後で、北麓に翌二八年山陰移住会社の入植、曾我(そが)農場の開設、西麓に明治三一年有島(ありしま)農場の開設、東麓に明治三〇年旧讃岐丸亀藩主京極高徳による農場の開設、南麓は明治二八年讃岐・阿波・土佐・南部の各団体の入植に始まる。山麓斜面は最高二合目まで耕地になるが、耕地限界は斜度による土壌流亡と、山頂から放射状に延びる浸食谷からの土砂流入とで決まり、とくに大雨や融雪期は土石流が発生して「魔の山」と恐れられ、一進一退を繰返してきた。第二次世界大戦後は耕地限界以上に民有林を育てる対策が有効との判断で、土石流を減速する低ダム群・拡散ダム群などの工事を含む民有(道有)林直轄治山事業が昭和四七年(一九七二)より進められている。
当山は独立峰のため植物の垂直分布相変化が顕著で、二合目までシナノキ、エゾイタヤ、ミズナラ、ウダイカンバ、オニグルミなどの低山性広葉樹林帯、三―五合目はダケカンバ、エゾマツ、トドマツなどの針広混合林帯、六―九合目はダケカンバ帯、これ以上はハイマツ・高山植物帯(イワウメ、キバナシャクナゲ、イワギキョウ、エゾノツガザクラなど約八〇種)で後方羊蹄山高山植物群落として国の天然記念物に指定されている。登山は、明治末から蝦夷富士として人気が出て急増。明治三八年に蝦夷富士登山会が旧倶知安村に結成、同四五年オーストリア人レルヒ中佐のスキー登山の実現、登山道の整備、山頂直下の石室の建設など、昭和一〇年頃まで登山普及に活動。現在登山コースは四つ(倶知安・京極・喜茂別・真狩)あり、倶知安と真狩のコースは登山道も整備され、夏は登り約四時間で家族登山も可能。当山は支笏洞爺国立公園内にあり、山麓に一〇ヵ所以上の伏流湧水があり、日本名水百選(旧環境庁)の「ふきだし公園」(京極町)、同百選候補の「カムイワッカ湧水公園」(真狩村)などの名水、半月湖(倶知安コース登山口)、南麓の羊蹄山自然公園などの観光でも訪れる客が多い。
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