甲府市北端にある標高二五九九メートルを測る秩父(ちちぶ)山地の主峰。山梨・長野両県の境界に位置し、千曲(ちくま)川水系・富士川水系の分水嶺をなす。高さでは北奥千丈(きたおくせんじよう)ヶ岳(二六〇一メートル)に次ぐが、瑞牆(みずがき)山・朝日(あさひ)岳など周囲の山々とともに広大な金峰山塊を形成する。山体は黒雲母花崗岩で、壮年期地形を呈する。眺望絶景の地として知られ、「裏見寒話」には「此嶺上に登れは、信州浅間、越中立山、加賀の白山、妙義、榛名、佐土国等、快晴の時は遥に見ゆ」と記される。享保年中(一七一六―三六)に勅許甲斐八景に「金峰暮雪」が選ばれたほどの景勝地で、長い山岳信仰の歴史をもつが、現在はスポーツ登山で賑わう。昭和二五年(一九五〇)一帯が秩父多摩(ちちぶたま)国立公園に指定された。山名は長野県側では「きんぽうさん」ともよぶが、山梨県では「きんぷさん」「きんぷうさん」の呼称が一般的である。天正一〇年(一五八二)一二月五日の徳川家印判状(金桜神社文書)などでは金風山とも表記される。幾日峰(いくかのみね)ともよばれ、「風雅和歌集」に載る順徳院の「ちくま川春ゆく水はすみにけりきえていくかの峰の白雪」は当山を詠んだものとされる(甲斐国志)。
御岳(みたけ)町金桜(かなざくら)神社の由緒書(社記)によれば、信仰は、一国鎮護の霊地と考えた日本武尊が山頂南西の少彦名命の鎮座する御像(ごぞう)石の下に社殿造営を命じて素盞嗚尊・大己貴命を合祀し、雄略天皇の時代に至り里宮を建立したことに始まるというが、不詳。またかつてこの山を金丸山といい、文武天皇の時代に大和国金峯山(きんぶせん)より蔵王権現を勧請して本宮(山宮)と里宮に祀ったため、金峰山と改称したという(同書)。神体の御像石は高さ二〇メートルを超す屹立した花崗岩で、古代の磐座信仰・巨石信仰を今日に伝えている。蔵(ぞう)石(享保一九年「金峯山縁起」県立図書館蔵)、御影(みかげ)石(裏見寒話・甲斐国志)、五丈石・五丈岩ともよばれ、蔵王権現の踏みつける磐石に由来した名称と考えられる。御像石の頂には甲斐派美(かいはみ)という池があり、旱魃にも涸れず、甲斐・武蔵・信濃の諸河川の水源に鎮座したことから耕作守護神としても広範な信仰を集めた(社記)。池の所在は明らかでないが、御像石の周辺から水信仰と深いかかわりをもつ一〇世紀頃の土馬が発見されている。御像石の南面には、蔵王権現を祀った方八尺の正殿と方三間の拝殿が建てられ、役小角奉納と伝える鉄杖と剣、唐銅の経筒、焼鎌の神宝を納めていたが(甲斐国志)、現在は石垣で築かれた平坦地に石祠と二基の石灯籠が残る。
金峰山への登山道は、信州佐久(さく)郡の北口のほか甲斐国内からの九筋があった。万力(まんりき)(現山梨市)、西保(にしぶ)・杣口(そまぐち)(現牧丘町)の各村からの道筋を東口、吉沢(きつさわ)・亀沢(かめざわ)(現敷島町)、塚原(つかはら)からを南口、穂坂(ほさか)(現韮崎市)、江草(えぐさ)・小尾(おび)(現須玉町)からを西口と称し、現牧丘(まきおか)町杣口、山梨市万力・同歌田(うただ)、御岳町に里宮の金桜神社が建つ。「延喜式」神名帳には山梨郡九座の一つとして「金桜(カナサクラノ)神社」を載せるが、この四社は山頂の蔵王権現とともに、当時金桜神社と称した確証を欠くことから、式内社に特定することはできない。「甲斐国志」は近世の入峰路として、山川部・神社部に吉沢口を中心とした記述を行っている。これによれば、平瀬(ひらせ)で荒(あら)川を渡って吉沢に入り、外道(げどう)坂・八王子(はちおうじ)嶺を経て御岳金桜神社の前に出た。これより山宮へ五里五〇町、滝尾(たきお)坂・根子(ねこ)坂を越して黒平(くろべら)村を過ぎ、鳥居(とりい)嶺・唐松(からまつ)嶺・水晶(すいしよう)嶺を通って御室(おむろ)に至った。水晶嶺は水晶の原産地として名高いが、半鐘(はんしよう)嶺ともいわれ、登拝者がここから御室小屋へ合図する半鐘があったと伝えられる。御室神社前には番所が置かれ、登拝者より参銭(賽銭)を取った。御室から山頂の山宮までは五〇町に及ぶ急坂で、途中、鶏冠(とさか)岩や勝手(かつて)明神の祠、その傍らに屹立する隻手回(かたてまわし)とよばれる巨岩、胎内くぐりの行場などがある。隻手回は勝手明神の神体と目される高さ一五メートルほどの卵形の岩で、弁慶の片手回しとも俗称されるが、勝手明神の「勝手」が転訛した呼称と考えられる。同名の神社は大和国金峯山にも存在し、同山と同様に、この山が水源として重要視されていたことから勧請されたものであろう。吉沢から山宮に至る道筋には、吉沢から金桜神社の間に三、滝尾坂・根子坂・鳥居嶺・唐松嶺下・刈合(かりあい)・御室に各一の合計九個の石鳥居が建てられていた。「甲斐国志」はこのほか旧登山口にあたる吉沢の御霊平(ごりようだいら)に石鳥居残骸の存在を記している。この鳥居は鎌倉時代の製作と推定されるもので、現在敷島(しきしま)町スポーツ公園に移築・復元されている。
史料的制約から中世以前の金峰山信仰の実態は明らかでないが、南北朝時代には吉野の金峯山に登拝できなかったことから、六月一五日を峰入りの初日とし、関東・関西の山伏が御霊平より入峰して修行したといわれる(甲斐国志)。また享保一九年の前掲金峯山縁起は、智聖開山伝説を記録している。この人物は天台宗寺門派の祖の円珍(智証上人)と考えられ、仁寿元年(八五一)三月一一日に牧丘町杣口の金桜神社を勧請したと伝えられる(金桜神社由緒)。智聖(智証)の名は各地に残る金峯山縁起にも登場することから、甲斐金峰山信仰の発展に天台宗寺門派が深く関与していたものと思われる。金峰山山頂一帯では、御像石周辺を中心に九世紀後半から一三世紀の所産と推定される土師質土器・陶磁器・土馬・金銅製円板や中世の渡来銭、近世の寛永通宝・鉄釘などの遺物が採集されており、古代の経塚信仰や祈雨祭祀、中・近世の山岳修験にかかわる遺物と考えられている。甲斐国内では富士山に次ぐ霊山で、近世中期以降は両山を結ぶ道者(どうじや)街道とよばれる道筋があった(甲斐国志)。
©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo
©2025 NetAdvance Inc. All rights reserved.